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カテゴリ ‘編集後記’ のアーカイブ

●姉妹メルマガ「日刊デジクリ」の本日の発行号では、行列とベクトルの積をどう計算するか、といった難解なエッセイが登場。筆者が原稿の提出先を間違えたんじゃないのか、と思うくらい学術的だった。原稿整理していてサッパリ意味がわからないのって屈辱。筆者によれば、行列とか固有値とかいうのは高校レベルの知識があれば理解できるだろうと。説明を省略したところもあるのでウィキペディアで読んでネ、わりとちゃんと書かれているから、って読んだけどますますわからなくなった。


小中学校の算数、数学はよくできた方だが、高校一年の数学で躓いて以来、今に至るまで倒れたまんまだから当然だ。高校では二年、三年に進級する際に数学の追試を受けたが、男生徒は二人だけで(女生徒は多数)、二回とも同じ人物だった。もう一人の数学馬鹿は先日死んだ。


小5の孫娘が算数の宿題で相談に来たら、かっこよく解き方を教えようと、新聞の連載算数教室をスクラップしているが、つるかめ算、方陣算、数の性質、論理的思考、図形などなど、解き方を読んでもよくわからない。なんで昔は楽々理解できたんだ。いまの算数は昔より難しくなったのか。(柴田)


●いるなぁ。劇場で途中から入ってくるのにタイミングをはからない人、腰をかがめない人。アイドルグループが出演する舞台を観た時に、そのアイドルが出てくる直前に堂々と最前列中央に入ってきて、次の出演まで時間があると出ていく女性がいたわ。で、また途中入場。


腰はかがめないわ、盛った髪型だわで、近辺の人たちに同情したよ。大抵の舞台では、遅れた人は区切りのつくタイミングまでは着席させない。オープニングでお客さんの心をつかまないといけないから。で、以前にも後記に書いたけれど、その人はお腹を下しているのだと思うことにした。不思議と許せるようになるからお試しあれ。


蛍嬢(客席案内係)の開演前の客席での注意事項説明は、携帯電話の電源を切ること(マナーモード不可・アラームでも起動させない)、カメラ・ビデオでの撮影禁止、テープレコーダー類での録音禁止、観劇中の飲食禁止。このあたりは普通。


気の利いた劇場だと、観劇中のおしゃべり禁止、背もたれに背中をつけての観劇(身を乗り出すと危険な席への注意はもちろん、傾斜のある客席だと、前屈みになると後ろの人が舞台を見えなくなるから)、ビニール袋で音をたてないように配慮願い(劇場で配られるチラシ類は音のしないビニール袋に入ってる。コンビニやスーパーの袋はカシャカシャ音がする)なども注意事項に含まれる。


新幹線の指定席や自由席で肘掛けに肘をかけられるのは、競合しない両端だけ。劇場でも同じく、肘かけは区切りでしかないので、両端以外は肘をかけてはならない。加えて、演者らが通路に出てくる可能性がある場合は(座席と舞台の間に数段の階段が出ている時は)、両端も肘はかけられない。区切り線を越えて足を広げない。荷物も区切り線内に。大きな荷物はコインロッカーへ入れる。(続く) (hammer.mule)


< http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/100893/ >
キーファー・サザーランド主演の海外ドラマ『Touch』まだ見てないけど

●タイトルにひかれて横山泰子「妖怪手品の時代」を読む(青弓社、2012)。この聞き慣れぬ言葉の定義は「幽霊出現などの怪異現象を種や仕掛けによって人為的に作り出す娯楽」である。時代とともに大掛かりな見せ物になっていく、江戸享保年間から明治までの過程を、豊富な史料を用いて解説し、さらに同時代の中国やヨーロッパのそれと比較する。


著者の大学・大学院での専攻は日本文化史、比較文化で、現在は法政大学理工学部教授だ。本書は江戸時代の手品の解説書(伝授本)の図版や注が多く、内容は難解ではないが学術書に近い。でも、種明かしを読むと案外たわいなくキテレツ揃いなので楽しい。


つまり、妖怪手品の時代とは、人間の批判的精神のもと、恐怖の対象だった妖怪が娯楽の対象になった時代なのだ。妖怪手品は批判精神と平和な時代の産物である。と、著者はまとめる。わたしが一番興味をひかれたのが「妖怪手品師・江戸川乱歩」の章だ。


乱歩は「探偵小説は手品文学」という説を展開する。探偵小説の謎は一見不可思議、かつ不可能に見えるが最終的には解明できる。謎解きの遊戯ともいえる。「乱歩の作品は文学の形をとった手品の解説本、すなわち伝授本の小説版といえる」とまで筆者はいう。乱歩は探偵小説の本質を「子供らしさ」と見ていたという。


そこで、子供のころ読んで怖くて半泣きの記憶のある「青銅の魔人」を、図書館の子供の本棚から借りて来て、あっという間に読了した。青銅の魔人は神出鬼没だ。いつの間にか密室に現れ、煙のように消える。種明かしを読むと、たしかに不可能が可能になっている。だが、子ども騙しのトリックばかりである。子ども騙しなんだから、小学生のわたしがコロッと騙されたわけである。だが、怖くて怖くて夜オシッコに行けなかったのは「青銅の魔人」ではなかったようだ。すると、横溝正史の「鋼鉄魔人」だったのか? 探してみよう。(柴田)


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●おしゃれなパン屋さんで。6枚切りのパンがなかった(大阪では6枚切りの方が売れるよ)。聞くと、ありません、だけだった。ファストフード店で、ある商品のセットがあるかどうか聞いた。ありません、だけだった。


本屋内の検索システムでプリントアウトした紙を持って商品を探したけれど、見つからなかった。近くにいた店員に紙を見せたら、めんどくさそうに移動して探し、ありませんね、と言った。今はあっさりした接客の方が好まれるのだろうか。取り寄せや代案を提案してくれたら、あ、それでいいです、となったかもしれないのにな。


近所の総合ショップ(ホームセンターみたいなもので何でも売ってる)にスコップを買いに行った。見つからないので店員さんに聞いたら、売っているであろうコーナーまで行って、切らしてますね、すみませんと言った。言われたのはこれだけ。いつ入荷だとか取り寄せしましょうかとかそういうのはなし。


階下のお花屋さんで聞いてみた。一度もここで買ったことはないし、足を止めたこともない。年配の女性が、ここでは売っていないけれど、駅前のファッションビル内にある100均にならありますよと教えてくれた。そのうえファッションビルの場所まで説明しようとしてくれた。今度切り花が必要な時にはこの店に行ってみようと思った。


年配の男女の方が総じてパワフル。取り寄せ、代案、競合店の紹介までしてくれる。飲食店でもプラスαのことをしてくれたり。若い子でそれができると、このまま育って欲しいなぁと思ったり。(hammer.mule)

●平成という名付けは最悪であった。不景気、大地震、戦争とろくなことがないのもこのせいか。中国の年号では平の字が上に来るものはひとつもない。日本では、これ以前はただひとつ平治があるだけで、果たせるかなあの戦乱が勃発。翌年一月、改元。


元号のせいで凶事がつづくなどと言うと、縁起をかつぐみたいで滑稽かもしれない。しかしもともと呪術的な記号である。縁起ものだからこそ、平治のときのように、これはいけないとなると改元した。早速、法律を手直しして改元すべきだ。ということを書いたのは、あの丸谷才一である(2004年5月4日:読売新聞)。


果たせるかなその後、民主党政権で日本は滅茶苦茶、加えて大地震に原発事故。これらは平成の呪いだ。丸谷才一が平成をしりぞける理由はこのためだけでなく、日本語のエ列音は格が低いからだ。原始日本語の母音体系はア、イ、ウ、オからなっていたと推定され、後来のエ列音には概して侮蔑的な悪意のこもった、マイナス方向の言葉が入ることになった。


エヘヘは追従笑いだ。エセ、ケチ、セコイ、ヘ(屁)、ヘコム、ヘコタレル、ヘーコラ、ヘタ、ヘツラウ、ヘナヘナ、例はいくらでも。厭らしい動物はヘビと切りがない。ヘイセイ(実際の発音はヘエセエ)はエ列音4連続だ。明るく開く趣きではなく、狭くて気が晴れない。これでは世が乱れるのは当たり前だ。


この平成は、元号懇談会の委員の中でただ一人の東洋思想の碩学が猛反対したのに、日本語の現実に暗い連中が押し切ったという。懇談会には日ごろ言葉の使い方で苦労している、語感の鋭い、詩人、劇作家、小説家を入れるべきだ。「本当のことを言えば、これを機会に年号を廃止し、西暦でゆくのが一番いい」と丸谷才一さん。ご冥福を祈ります。(柴田)


●ノリで申し込んだ東京マラソンが落選と知って、安堵したのには自分でも笑ってしまった。この当落通知は迷惑メールに入ってた。東京マラソンからの他のメールは受信箱に入るのになぁ。


昨日、ジムに行ったよ〜と書いた。ジムのチェックアウト時、カウンターの年配の女性に、久しぶりのジムはどうでしたか、と笑顔で聞いてくれた。ジムのインストラクターさんは、最初は新人っぽい人だったのに、途中から別の人にバトンタッチ。月間のスケジュールを見ると、主に水泳を教えるベテランだった。説明がわかりやすかった。年配の人、ベテランはいいなぁ。


パーソナルインストラクターをお願いしたいよ〜と思ったりした。ジムでのマシンやフロアメニューは基本勝手にやって勝手に帰るって感じ。学生時代の部活や、社会人になってからでも習い事だと先輩や先生がいて、ビシバシチェックを入れられる。はいみんな今からやるから良く見ろ、誰々出てこい、こうやってこうする、みんなわかったか、ここが違うところだ、こうやるんだ、はいみんなでやるぞ、お前のここはこうだ、君のはそこをこうする……。


三年前まで習ったバレエでもそうで、ほぼマンツーマンだったため、手取り足取り。だからジムの勝手に学べ、をやりながら、間違って覚えたりしていないだろうかと不安になる。楽しさより不安が先。 (hammer.mule)

●「立川談志自伝 狂気ありて」を読む(亜紀書房、2012)。この本で叩かれたら怪我しそうなものすごく丈夫なハードカバー。鈴木成一デザイン室の装幀が美しい。巻頭の高座の写真がすばらしい。本文中に写真も多く、上品な組版で読みやすい。「この作品は、2009年8月〜2010年9月に執筆され、ご遺族の校訂を経て刊行の運びとなりました」と奥付の前のページに編集部の告知がある。筆者は2011年11月21日に亡くなった。「立川談志の想い出という名の未練を書き残しておく。能書きは長いがそういうことだ。」と前書きの最後にある。


「本を書く理由は『整理』ともいえる。人間誰しもそうであろうと思うが、当然くる人生の終焉に対する己が身の『整理』、これであろう。」という覚悟で「毎度のことながら、資料も見ずに記憶だけで書いている。早い話が面倒臭いからだ。喋ったほうが楽ではあるが、それでは駄目なのだ。」と、深夜、腰痛に耐えながら思いつくままに原稿用紙の升目を埋めていったようだ。見返しに黒バックで金色でその原稿が印刷されている。


この人の記憶力が尋常ではない。人の名前を思い出せなくなるのが老化を実感する初めだが、談志は多くの芸人の芸名はもちろん本名まで、いつどこで演じていたか、ネタはなにかまで記憶にあるようだ。他人のネタや当時の歌なども容易に再現できるという。芸人ばかりではない。その人脈の広さにも驚く。


だから、出て来る記憶を延々と書き綴っただけの本。理屈っぽくなく、淡々と記述しているが、ここでは異常な記憶以外には芸を見せていない。談志の娘の若い頃の文章が挿入されていて、そっちのほうがうまいくらいだ。最後の章は「エゴの塊のような気狂いが老いた」で、声帯のガンを患い話芸が成立しなくなるさまを描く。本人は言わないが無念であろう。300ページ近いが、2時間もあれば読める。わたしは談志に思い入れはないから、丁寧な作りのわりに内容はスゴイとは言わないが、ファンにはたまらない”最後の”談志本だ。 (柴田)


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●後記で何度も書いていたスポーツジム行かなきゃ、を実現した。仕事の谷間で、今日しかないわと準備。2年は行っていなかったと思う。今月末に切れる招待券を家人に渡し、ついてきてもらうというヘタレぶりを発揮。きっかけがないとなかなか行けない。チェックイン・アウト方法すら忘れてたわ。カウンターでは、久しぶりだという話をし、家人がビジターなので利用説明を一緒に聞く。


以前はバレエに行っていて、ジムの利用はなかった。個人記録用紙は作ったかなぁ、どうだったかなぁと棚を探す。そこからか! もちろん無くて、家人とともに作ってもらう。目標を聞かれたのだが具体的な数字は言えず、「体力をつけたい、やせたい」とだけ書いた。体力が衰えていて、仕事もなかなかはかどらない。あともう少し、詰めをもうちょっと、という手前でしんどくなってやめてしまう。外出も億劫。


1m以上ある、小さな冷蔵庫ぐらいの大きさの測定計に乗る。体脂肪やら筋肉量、水分量やらがパーツごとに出てきて、それを元に説明をしてくれる。体のバランス、基礎代謝、どこの筋肉が衰えているかとか。で、それを元に練習メニューを組み立ててくれた。マシン類を使うのは初めてで、自分の苦手としているところ、得意としているところがわかって良かった。特に脚力、腹筋はあきれるほど衰えてたよ。まわりの人たちはストイックにこなしていて、年配の方でもスタイル良かったな〜。


初回だったのでインストラクターが横についてくれ、細かな指導を入れてもらえたんだけど、次回からはそれはなかなかできないだろうな。膝が中に入るから傷めやすいとか、ひじが脇から離れると効果的な筋トレができないとか、肩甲骨を開いたままでとか、そういうチェックはありがたかった。通って、体力つけて、もう一踏ん張りできるようになりたい。 (hammer.mule)

●小路幸也「話虫干」を読む(2012、筑摩書房)。登場人物のひとり圖中は「だが、何なんだろうこの感覚は。この得も言われぬ違和感のようなものは」と度々考える。読者であるわたしも読んでいる間中ずっと感じていた。視点が圖中になったり、糸井になったり、意味不明の展開がめんどうくさいので、一度ならず投げ出そうとした。


圖中とは夏目漱石の「こゝろ」に登場する「私」「先生」の青年時代の姿で、糸井とは「話虫干」という任務を帯びて漱石の「こゝろ」の舞台となる時代に送り込まれた現代の図書館員である。


貴重な蔵書の物語の中に入り込み、話の筋を勝手に書き換えてしまうのが「話虫」で、それを阻止して物語の内容を元に戻すため「虫干し」する(デバッグする)のが「話虫干」だ。糸井と上司の榛は明治時代に進行形の物語中にダイブ、登場人物になりすまして「話虫」を捜索する。


「こゝろ」の「k」は桑島として登場し、漱石本人、小泉八雲、それにシャーロック・ホームズなども加わり、ますます混沌とした世界になって行く。果たして「話虫」とは誰だったのか、その正体はなにか。そして「話虫干」は完遂されたのか。


よく思いついたよなあ、この設定。レトロで居心地のよさそうなバーチャルリアリティ空間。どうやって辻褄を合わせて結末に導びくのか、期待して読み進めたが、いまひとつ納得できない終わり方であった。それでも、すてきなファンタジーであることは確か。夏目漱石の「こゝろ」は遥か昔に読んで、大筋しか覚えていないが、辛気くさい話だったな。「話虫」はそれを明るい方に転がそうとしたのではないか。「話虫」がほかの名作にとりついて…、という続編を期待、できない。これ“一発芸”だろう。(柴田)


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●「こゝろ」は教科書で途中まで読んだ。続きが知りたくて買って読んだ。もうほとんど話は覚えていないけれど、心が痛くなったのを覚えている。二度と読みたくない。


神社で。当たるはずのない、入るはずのない出店。こういうのは実の親だとやらせない。でも甥らにとっては経験なので、一度ぐらいはとこわれるままに財布の紐を緩めるワタクシ。輪投げ。甥四人分を払い、お店のおばさんに「おまけしてくださいねー」と言ってみたら、笑顔で本数を増やしてくれた。何も言わないのに途中でも追加してくれた。入るはずはないので懐は痛まないし、店先が賑わうしとWin-Winではあるけれど、やらない人はやらないよね。


くじ引きもやった。通りかかるたびにやりたいと言うので、やらせることにした。不公平になるから全員分ひかせる。当然ながら全員ハズレなのだが、そのおばさんは、本当はシールセットなんだけどといいながら、全員におもちゃの銃をくれた。全員に同じものをくれるとは、さすがだわ。四人の男の子を育てる苦労へのエールかも。わたしゃこの子らのママじゃないんだよな〜と思ったり。


とは書きつつ。なんかある時期から、これらのお店に限らず、子供と一緒じゃなくても、おまけしてもらうことが増えた気がするというか、おまけされない時は知らないわけだから、いつでもラッキーな気がして嬉しいわ。出店の人たちとは二度と会わないだろうけど、店舗ならまた行こうって気になっちゃうわ。 (hammer.mule)

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